佐賀平野は実り豊かな大地だと思っていた。(事実そうには違いないのだが。。)
縦横無尽に張り巡らされたクリークには水が満ち、米や麦や大豆を育む広大な農地。
目に写る佐賀平野は緑に溢れている。
「川の記憶」を撮影するまでの佐賀平野のイメージである。
佐賀平野は、もともと広大な大地を潤すには河川が少なく、大きな河川である筑後川は「筑紫次郎」という名の暴れ川で、頻繁に洪水に見舞われる土地柄であり、「降れば洪水、降らなければ渇水」というのが佐賀平野の過酷な現実であった。
人々は生活や農業用の水を、中小河川や江湖(えご)などから取水していたらしい。
江湖(えご)は、川との見分けがつかないが、有明海の干満により干潟にできた澪筋が、やがて大きくなって、平野に取り残されたものが起源で、上流の水源を持たず、延長も短い。
今ではクリークや河川と繋がっていて境がわからないが、「江」という名称のついた川が、あちこちに残っている。
河川からの取水は「アオ」と呼ばれる海水の上にある真水を利用していた。
干潮時に一度有明海に降った「水」が潮が満ちる際に、比重の重い潮水の上に乗って、混じり合うことなく上流に運ばれてくるのだそうだ。
この「アオ」も干満の差が大きくなければ取水量も少なくなるため、「アオ」を貯水するための溝や畔が作られ、原始的なクリークが生まれたとのこと。
クリークは、中世には集落を堀のように囲った環濠集落を形成したりしながら、近代の佐賀藩により、高度に網の目のように整備されていく。
これらの水との葛藤は、揚水のための踏み車や甕を利用した濾過装置などの道具を生み、泥土揚げなどの行事を通じて人々のコミュニティを育てていく。
「次郎物語」という映画の冒頭で、川の干潮時、土手から泥の滑り台で遊んでいる子供たちのシーンがある。
川が身近なものとして生き生きとしていた時代の映像である。
しかしそれらは、やはり大変な労働を強いる生活であり、天候に大きく左右される生活であり、生産性の低い生活である。
やがて農業の高度化や工業用水としての需要など水の重要性が多様化し、社会の仕組みや、生活様式が変わる中で近代的な灌漑事業が進められ、洪水対策や水不足の解消への手立てが取られて現代に繋がっている。
「川の記憶」は、家の近くを流れる切通川が筑後川に接するところにある、江見排水機場の護岸を撮影したものである。
干潮になると、川底から人工的に配置した木組みや石組が現れる。
何のためのものかは辿りようもないが、役割を終えた後、何十年もただ潮の満ち引きだけを感じて、静かに川底に眠っている。
それは人々が川と生活していた証であり、失われた時の記憶である。
撮影は日が暮れる時間帯で、光が足りず30秒ほどシャッターを開けていた。
護岸の影は深く、干潮に現れた石組と時間が止まったような水面に残された水草が印象的だった。
写真は目の前の瞬間を切り取ることで、そこにある物語を残すことができる。
このテーマはもう少し追いかけてみたい。
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