2022年6月1日から始まった3週間の作品展が終了した。
画廊のインスタに「自身23年ぶりの個展。。」と記載があり、あまりの長さにどこか他人事のような感じがした。今回が2回目の個人の作品展である。
23年前の作品展は、福岡県立美術館の1室を借りて行った。
その時の展示は、全て人物画だった。
若い頃から絵画は自己追及の手段だと思っていて、自分の内側を探りそこにあるはずの真実を描き出す事を目的として描いていた。
ある意味自分をぶつけるような作品達。
この頃は、絵を描くことが苦痛で、絵を描く必然性みたいなことをいつも考えていた。
高校生の頃、中世からルネサンス時代の絵画が好きでテンペラ画もその頃知った。
卵を使うという知識はあったが、高校時代に入手できる情報は少なく、大学に入り中村彝訳本の「芸術の書(C.チェンニーニ)」などで手探りで勉強した。
修士課程の集中講義で田口安男先生から金地テンペラを習った時、先生の言葉や一挙手一投足を一瞬たりとも見逃すまいと、吸い取り紙のように吸収した。
毎日、帰宅する電車の中で授業の初めから終わりまでを思い出しながら自分のノートに絵付きで解説を書き、講義の終了時には自分なりの手引書が完成していた。
そして大学の修了に当たり、オリジナルの30号ほどの金地テンペラ画の作成記録と併せ、技法書として取りまとめた。
とにかく熱中した。
その後、ドライブラッシュによるテンペラなどいろいろ試した。
木枠で補強したシナベニアに和紙、薄塗りの下地はこの頃からだ。麻布を貼る板絵に比べ簡易にでき、軽くて下地を作るのも楽だった。
アクリル絵の具を試し始めたのもこの頃である。
石膏地にハッチングで仕上げたり、油絵のような厚塗りをしたり、いろいろ試していた。
ただモチーフはやはり自分だった。
30歳を過ぎて、仕事や生活の事など、諸々の事情から絵を描く事から離れる時間が長くなった。
ただ、描かなくなったのは、描けない自分を感じていた事が大きかったかも知れない。
画面を前に何も浮かばない、たまに描いても何も響いてこない絵画しか描けなかった。
もう作品は描けないような気がしていた。
そういう時期ではあったが、先輩の勧めもあり実施したのが、県立美術館での作品展だった。1999年、38歳の時である。それ以降は特に作品らしいものを作っていない。
2014年、知人のグループ展を見に行ったのがWald Art Studioとの出会いである。コーヒーを飲みながら絵画の話になり「描いてみたら?」とアクリルボックス展に誘われた。「描けるかな?」と正直に思った。ただ丁度子育ても落ち着き、時間的にゆとりが出来たこともあり出品を決めた。
そして翌年のアクリルボックス展に出品したのが「鵺」である。
この作品は図形遊びから始めた。
楕円を二つ描いて、遠近感をどうやって表現するかを考えていた時、たまたまエッシャーのだまし絵を見る機会があり、月夜の湖に映る木の影と水紋で遠近を出した。
更にその湖面を飛ぶ鳥を画面に大きく描き、重なりの空間を意識して描くことにした。
月明りを着色せずに表現しようと下地の和紙に雁皮紙を重ねてみた。
出来上がった作品はちょっと不思議な感じに仕上がり、夜に飛ぶ鳥のイメージから「鵺」というタイトルに決めた。
この創作は刺激的で楽しかった。
それ以降、1年に1点のペースでグループ展に参加するようになり、絵のサイズも年を追うごとに大きくなった。
創作にカメラを活用し始めたのもこの頃である。
ピントを少しづつずらしながら撮影し、後でピントの合っている部分だけを合成するフォーカスシフトという技術も利用した。
ただ変わったのは、人物を全く描かなくなっていた。
別に意図した訳ではなく、自然とそうなった。
描けないと思っていた絵画に、思いのほか自然に向き合うことが出来た事は、自分でも不思議だったが、分かった事もある。
若い頃と違って絵を描く時のベクトルが内側に向いていないことである。
今も内面を見つめる姿勢は変わらないが、今はそこに絵の主題や必然性を求めていない。
Wald Art Studioでの若い作家さんたちとの交流には新鮮な楽しみがある。
よく「絵画や写真など表現手段が違っても世界観が同じですね」と言われる。
自分自身を無理に表現しなくても、自分自身の見方や感じ方は、内側から滲み出てくるものなのだと思った。
そんな出会いと言葉が、これからの創作を示唆してくれる。
再び絵画を描くきっかけとしてWald Art Studioに出会った不思議さを感じている。
「出会うべき時に出会う人と場所がある」そんな気がしている。
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